2019年05月20日

ドイツ国防軍陸軍 第503重戦車大隊(ティーガーII重戦車大隊) - Schwere PanzerAbteilung 503 -


第503重戦車大隊(ティーガーII重戦車大隊)
- Schwere PanzerAbteilung 503 -
(フェルトヘルンハレ重戦車大隊)
陸軍直轄独立部隊
1944年12月以降「フェルトヘルンハレ重戦車大隊」に名称変更。
第503の名称はSS第103重戦車大隊がSS第503重戦車大隊(ティーガーIからティーガーIIに車両変更)として継承。

後半のSSパイパー戦闘団(バルジの戦い)のティーガーIIはSS第501重戦車大隊(元SS第101重戦車大隊 ティーガーIからティーガーIIに車両変更)です。



http://www.youtube.com/watch?v=TWfyMKhIgDg

第503重戦車大隊(ティーガーII重戦車大隊)
- Schwere PanzerAbteilung 503 -
(フェルトヘルンハレ重戦車大隊)
陸軍直轄独立部隊

http://www.youtube.com/watch?v=NTHpCTtb_Mk


第503重戦車大隊(ティーガーII重戦車大隊)
- Schwere PanzerAbteilung 503 -
(フェルトヘルンハレ重戦車大隊)
陸軍直轄独立部隊

ドイツ国防軍陸軍 第503重戦車大隊
第503重戦車大隊(Schwere Panzer-Abteilung 503)は、ドイツ国防軍陸軍に存在した重戦車大隊である。他の部隊とは異なり、どこの上級部隊にも属さない陸軍直轄の独立大隊として運用された。
第503重戦車大隊は1942年5月4日に組織された。1944年4月カメネツ=ポドリスキー包囲戦後、第503重戦車大隊は45両のティーガーIIを受領し、再編が図られた。
1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦を受けて、第503重戦車大隊は第5装甲軍の麾下となった。連合軍のグッドウッド作戦では、大隊の第3中隊を中心に作戦初日で13両の戦車を失う大きな損害を被っている。7月に第3中隊は新たなティーガーIIを受領したが、そのティーガーIIも連合軍に次々撃破され、ドイツ本国に帰還したのは僅かに2両であった。9月、部隊を再編した大隊はデブレツェンの戦いに従軍し、12月にはブダペストでの防衛任務に当たった。

ドイツアフリカ軍団 Deutsches Afrikakorps (指揮官 エルヴィン・ロンメル)
ドイツアフリカ軍団 Deutsches Afrikakorps
1940年9月イタリア領リビアに駐留するイタリア軍は、ローマ帝国の再来を夢見てイギリス領エジプトへの侵攻を開始した。しかし、攻勢は12月からイギリス軍の反撃により頓挫し、1941年1月イギリス軍は逆にリビアのキレナイカ地方を占領し、2月6日にはベンガジを占領する。このイタリア軍の敗北を受けて、ドイツ国防軍最高司令部は地中海・アフリカ方面へ兵力を展開することを決定し、エルヴィン・ロンメルを指揮官として2個師団(第5軽師団と第15装甲師団)をドイツアフリカ軍団と名づけ、イタリア軍救援のために派遣した。

第2SS装甲師団 ダス・ライヒ(2.SS-Panzer-Division Das Reich)
第2SS装甲師団 ダス・ライヒは、武装親衛隊の38個ある師団のひとつ。よく訓練されたエリート部隊で、第二次世界大戦の主要な戦闘で大きな役割を果たした。部隊名のダス・ライヒは祖国あるいは国家を意味する。
フランス戦後に、部隊は名称をSS-VT 師団から、SS師団ライヒと変更した。フランス降伏後、師団はイギリス英本土侵攻のためにフランスに留まったが、英本土侵攻作戦の延期により、1941年、師団はユーゴスラビア・ギリシア侵攻のためのマリータ作戦準備にルーマニアへ移動した。
1943年の初め、ダス・ライヒはハリコフの正面の崩壊の危機にある戦区の補強に東部戦線に戻された。ハリコフの再占領後、ダス・ライヒは、他の師団とともに、クルスクの戦いに参加した。ダス・ライヒは、突出部の南側の攻撃を担い40マイル前進したが、作戦が中止されベルゴロドに後退した。その後、ミウス河、ハリコフ、キエフと転戦した。1943年10月に第2SS装甲師団ダス・ライヒと改称。
1944年6月のノルマンディへの連合軍侵攻時、ダス・ライヒは、ヒトラーユーゲント師団と装甲教導師団と共にカーンの北方で連合軍の進撃を食い止める任務を受けた。師団は、モルタンを再占領したが、連合軍によりファレーズに包囲された。この戦いで重装備を失い、1944年の終わりまでに師団は、ドイツ・フランス国境まで撤退を行った。
アルデンヌの戦いの後、ダス・ライヒはドイツ国内に再編成のため撤退した。ダス・ライヒは、東部戦線南のハンガリーのブダペストにおける反撃作戦に投入された。この作戦は、ブダペスト市内にヒトラーの死守命令により包囲された部隊を救出することが目的であった。しかし、当初の攻撃がブダペストへの最短ルートである装甲部隊の前進・攻撃に向かない地形に対して行なわれたため、部隊の前進は進まなかった。その後、遠回りであるが装甲部隊の進撃に向いている平地を経由しての攻撃が再度行なわれたが、既に時期を逸しており、作戦は失敗した。
その後、ダス・ライヒは再度ドイツに戻り、残りの戦争中、ドレスデン、プラハ、ウィーンでの戦闘に参加し、終戦時、師団のほとんどはアメリカ軍に降伏するため西部戦線へ移動した。

ケーニヒグレッツ行進曲 - Koniggratzer Marsch -
ケーニヒグレッツ行進曲 (Koniggratzer Marsch)は、ヨハン・ゴットフリート・ピーフケによって作曲された行進曲。普墺戦争でプロイセン軍がオーストリアを打ち破った1866年のケーニヒグレッツの戦い(サドワの戦い)を記念して作曲された。
本来はドイツ帝国陸軍第91オルテンブルク歩兵連隊の行進曲であったが、ナチス・ドイツ時代のアドルフ・ヒトラー総統が特に気に入っていた行進曲の1つで、彼はしばしばナチ党の式典でこの行進曲を演奏させた。
ケーニヒグレッツ行進曲は現在のドイツ連邦軍のパレードでも非常に人気のある行進曲として使用され続けている。
その他のドイツの行進曲にも見られるように、ケーニヒグレッツ行進曲はチリ陸軍などの行進でも使われることがある。例えばジャマイカ国防軍ではジャマイカ連隊第2大隊の行進曲として演奏され、チリ陸軍ではフランス式のファンファーレを加えて第1装甲騎兵連隊の行進曲として演奏されている。

第三次ハリコフ攻防戦 1943年1月 第ISS装甲軍団
第ISS装甲軍団(SS PANZER KORPS)
第1SS装甲師団 ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー(1.SS-Panzer-Division Leibstandarte SS Adolf Hitler)
第2SS装甲師団 ダス・ライヒ(2.SS-Panzer-Division Das Reich)
第3SS装甲師団 トーテンコプフ(3.SS-Panzer-Division Totenkopf)

第三次ハリコフ攻防戦
第三次ハリコフ攻防戦は、1943年1月から3月まで、ハリコフを中心にウクライナで行われたドイツ軍と赤軍との戦闘。
ソ連軍の大攻勢に対して、ドイツ軍はマンシュタインの機動防御戦による反撃により東部戦線南部は崩壊を免れた。「マンシュタインのバックハンドブロウ(後手からの一撃)」の異名を取り、機動防御戦の教科書として戦史上極めて重要な戦闘の一つに数えられている。
ドイツ軍は、ウクライナの解放を目指すソ連ヴォロネジ方面軍・南西方面軍・南方面軍の大攻勢に押し込まれたが、反撃に成功しクルスクを中心としたソ連側の突出部が形成された。
第ISS装甲軍団は第1SS装甲師団、第2SS装甲師団、第3SS装甲師団から構成されていた。
SSの師団は一般的には他の師団より状態が良く、150台の戦車と自走砲大隊を持ち、歩兵と偵察部隊はトラックにより自動化され、19,000名の編成で構成されていた。この時、ドイツ戦車の大半が未だにIII号戦車とIV号戦車によって構成されていたが、第2SS装甲師団にはティーガーIが配備された。
SS装甲軍団はパウル・ハウサー将軍によって指揮されていた。ハウサーは第3SS装甲師団の指揮官でもあった。

第12SS装甲師団 ヒトラーユーゲント(12.SS-Panzer-Division Hitlerjugend)
ナチス・ドイツの武装親衛隊に所属した師団のひとつである。師団の通称からもわかるように、青少年団体「ヒトラーユーゲント」から選抜された青年を中心に構成された師団であった。ドイツ人のみで編成された武装SS師団としては最後のもので、下級兵士の大半が16歳以上の未成年で構成されていた。第二次世界大戦末期、ノルマンディー上陸作戦に伴うフランスでの戦闘、バルジの戦い、春の目覚め作戦などに参加した。

1943年6月1日編成
同師団の編成情報を入手した連合国軍は、哺乳瓶を師団マークにした宣伝ビラを撒くなど、完全な二線級部隊と決め付けていたが、やがてそれが大きな間違いであることを身をもって知らされることとなる。
ノルマンディー上陸作戦が開始された時、第12SS装甲師団と第21装甲師団は上陸地点の一番近くに配置されていた装甲師団だった。しかしヒトラーの了解がなかなか得られなかったため、上陸してきた連合軍に対して反撃を開始できたのは上陸から16時間もたってからであった。この反撃は結果的に失敗に終わり、ノルマンディー地区のドイツ軍は防戦に転ずるが、そこで第12SS装甲師団は真価を発揮する事となる。
ノルマンディー地方では交通の要所であるため、最重要都市のひとつであるカーン市の周辺に展開した第12SS装甲師団は、そこで超人的とも言える防戦を展開した。
第12SS装甲師団はカーン周辺から撤退した後リュティヒ作戦に投入され、その結果生じたファレーズ包囲網では最後まで残って他の部隊を逃がすために戦ったため、消耗し壊滅状態となった。
1944年12月のバルジの戦いでは、第1SS装甲師団と共に第6装甲軍の主力として参加したが、エルゼンボルン尾根に阻まれ第1SS装甲師団との併進に失敗し、第1SS装甲師団主力は壊滅した。
1945年3月には春の目覚め作戦に投入されたが、再び壊滅した。残存兵力はオーストリアに転進し、1945年5月8日、リンツ南東において米軍に降伏した。最終的な兵力は僅か455名で、戦車などの重装備は失われていた。

posted by Idol-Net21 at 06:11| 軍事/動画
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