2019年09月21日

スーパーマリン スピットファイア(Supermarine Spitfire)


スーパーマリン スピットファイア
(Supermarine Spitfire)

http://www.youtube.com/watch?v=8JgyKO3WT28

スーパーマリン スピットファイア(Supermarine Spitfire)
スピットファイアは、イギリスのスーパーマリン社で開発された単発レシプロ単座戦闘機である。
第二次世界大戦においてイギリス空軍を始めとする連合軍で使用された1940年のイギリス防空戦(バトル・オブ・ブリテン)の際に活躍、イギリスをドイツ空軍の手から救った救国戦闘機として有名である。
基本設計が優秀であったことと、戦況に応じたエンジンの出力向上(しかも排気量はグリフォン・エンジンまで変化していない)によって長期間にわたり活躍し、ライセンス生産など含め23,000機あまりが生産され、1950年代まで使用された。
ドッグファイト(空中戦)では、その機動性とコックピットの良好な視界という要因によって、ドイツ軍の戦闘機に対してスピットファイアがかなり多く勝利をおさめている。燃料噴射装置を搭載するBf 109は、スピットファイアに追撃されるとマイナスGをかけながら降下して離脱した。在来のキャブレター式で燃料供給されるスピットファイアがマイナスGでエンジンが停止することを知っていたためである。
バトル・オブ・ブリテンでは、スピットファイアが護衛戦闘機のBf 109やBf 110を攻撃し、その間にハリケーンが爆撃機を攻撃するといった戦法も用いられた。バトル・オブ・ブリテン全体で見れば、ドイツ軍が撃墜した10機のうち7機はハリケーンであった。
しかしながらスピットファイアは、ライバルBf 109と全く同じ、主脚の引き込み方式に由来する地上での安定性の不足、そして航続距離の短さという欠陥を抱えていた。防空戦闘機として活躍する際には航続距離は問題とならなかったものの、ドイツ本土に侵攻する爆撃機隊の護衛戦闘機としては致命的であった。ドイツとフランス上空が主戦場となった戦争の後半において、制空任務を務めたのは、増槽を持つアメリカ製のP-51 マスタングであり、イギリス空軍も本国の防空よりも敵地での地上攻撃が主となっていったことなどから、スピットファイアは戦闘爆撃機型と武装偵察機型の活躍が主となる。

太平洋戦線
1943年2月から、ポートダーウィン上空に来襲する日本海軍の零式艦上戦闘機と数次に渡って会戦した。状況は非常な長時間飛行で長駆飛来する零戦を、レーダー管制にて待ち伏せ迎撃するという、スピットファイアにとっては極めて有利なものであったが、結果は零戦の5機喪失(未帰還3機)に対し、スピットファイアは喪失42機(未帰還機26機)という一方的なものあった。このほか、両軍一次資料による実損害等と照らし合わせたものでは、全9回の日本海軍との空戦で零戦7機喪失に対しスピットファイア34ないし35機喪失となる大きな損害を受けた。
オーストラリア空軍(RAAF)第1戦闘航空団パイロットの多くは、欧州戦線で高速のBf 109やFw 190へスピットファイアの旋回性能を生かした格闘戦で対抗してきた経験から、それまでに高い操縦性を持つ零戦と対峙していたP-40戦闘機隊の「一撃離脱戦法に徹すべき」という忠告を聞かず、零戦が得意とする格闘戦に正面から挑んでいき多くが撃墜された。対戦した第202海軍航空隊、第753海軍航空隊が、搭乗時間1,000時間以上の熟練パイロットで構成されていたことも敗因とされる。

ビルマ航空戦
オーストラリア防空戦の後の1943年後半、背後にイギリス領インド帝国を持つ極東太平洋戦域におけるイギリス空軍の主戦場であり、中華民国内に拠点を持つ同盟軍アメリカ陸軍航空軍と共に日本陸軍航空部隊と対峙するビルマ戦線(「ビルマ航空戦」)に、ハリケーンの後続としてスピットファイアは投入された。
同方面でのスピットファイアの初交戦は1943年11月22日である。当時、日本陸軍飛行第50戦隊と飛行第33戦隊の一式戦「隼」22機が、イギリス空軍の基地であるチッタゴン飛行場に侵攻、現地のRAFはレーダーで来襲を探知しスピットファイア10機とハリケーン57機を迎撃に揚げた。しかし、スピットファイアMk.V 1機(第615飛行隊レオナード少尉機)とハリケーン1機(第146飛行隊グリフィス軍曹機、水田に不時着)が一式戦「隼」に一方的に落とされ、RAFが狙った一式戦「隼」を撃墜することは出来ず、日本陸軍戦闘隊は喪失なく全機が無事に帰還した。RAF側はレーダーで来襲を探知し、約3倍と圧倒的な数の戦闘機で邀撃出来たにかかわらず、ビルマ航空戦で初陣を飾ったスピットファイアはまたしても登場早々一式戦に一方的に撃墜された。
同年12月5日、日本軍は戦爆連合をもってイギリス領インド帝国のカルカッタを爆撃する龍一号作戦を実施した(本作戦はビルマでの航空作戦を担当する日本陸軍航空部隊のみならず、少数ながら日本海軍航空部隊も参加し零戦および一式陸上攻撃機が投入されている)。
侵攻に先立ち各地に飛んでいた一〇〇式司偵がチャフを散布し、日本軍のマグエ飛行場群からは飛行第64戦隊、第33戦隊、飛行第204戦隊の一式戦74機と飛行第98戦隊の九七式重爆撃機17機、続いて第三三一海軍航空隊の零戦27機、第七〇五海軍航空隊の一式陸攻9機が出撃しカルカッタを目指した。侵攻途中で第258飛行隊のハリケーンの奇襲を受け九七重爆1機を喪失するも、援護する一式戦「隼」はこれを撃墜、また爆撃自体も成功し任務は成功を収めた。この迎撃戦でイギリス空軍はスピットファイア1機とハリケーン10機を喪失、一式戦「隼」はこのうちスピットファイア1機とハリケーン7機を撃墜、零戦はハリケーン3機のみを撃墜、日本軍戦闘隊に喪失は無く一方的な戦闘であった。
1943年7月2日から1944年7月30日の期間、ビルマ戦線における空戦で日本陸軍の一式戦「隼」は連合軍機135機を確実撃墜し、対する空戦損害は83機喪失のみ。撃墜連合軍機の機種内訳は戦闘機70機、爆撃機等32機、輸送機等33機に上り、戦闘機の詳細はハリケーン24機、スピットファイア18機、P-51 15機、P-38 8機、P-40 4機、P-47 1機。逆に一式戦「隼」を撃墜した連合軍戦闘機の詳細はハリケーン3機、スピットファイア16機、P-51 12機、P-38 13機、P-40 14機、スピットファイアまたはハリケーン3機等となる。
日本軍劣勢の大戦後期においても、ビルマで日本陸軍航空部隊は強力な連合軍空軍と互角の勝負を、時には勝利を収めており、一式戦「隼」とスピットファイアもまた撃墜、被撃墜機数ではほぼ同等であるなど、名実ともに互角以上の関係であった。


第1SS装甲師団 ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー
(1.SS-Panzer-Division Leibstandarte SS Adolf Hitler)

第1SS装甲師団 ライプシュタンダーテ・SS・アドルフ・ヒトラー(Leibstandarte SS Adolf Hitler)は、武装親衛隊の38個ある師団のひとつ。SS第1装甲師団は、第二次世界大戦における東部戦線と西部戦線において活躍した。師団章は初代の指揮官ヨーゼフ・ディートリッヒの名前に鍵の意味があることに由来する。
Leibstandarte SS Adolf Hitler を敢えて訳せば、アドルフ・ヒトラー個人の武装親衛隊となる。
ヒトラー個人の護衛として発足、ヒトラーが政権獲得後徐々に拡大され、エリート集団であるSS装甲師団の中でも最精鋭の師団だった。部隊の出動先は常にヒトラーにより決定されており、戦争中最も有名な武装親衛隊の師団の一つとして知られるようになった。

ベルリンの戦い・降伏
LSSAHの一部は、ベルリンにおける戦闘で最期を迎えた。1945年4月23日、ヒトラーはモーンケSS少将を、総統官邸と総統地下壕が存在する中央政府地区の司令官に任命した。モーンケの司令所は総統官邸の地下、内部の壕にあった。彼はおよそ2000人からなる、2つの弱体な連隊に分割されたモーンケ戦闘団を編成した。彼の戦闘要員の中核集団は、ライプシュタンダルテ護衛大隊の800名であった。ヒトラーが自殺した後、彼らは脱出の指示を受けた。試みに先だって、モーンケはツィタデル地区内に到達できた指揮官の全員に対して、ヒトラーの死にまつわる出来事と脱出計画に関する説明を行った。行動は5月1日の23時に開始された。10の主な集団の中で、モーンケは先発隊を率いた。いくつかの非常に小規模な集団は、エルベ川西岸のアメリカ軍の下へ到達しおおせたが、モーンケの集団を含む大半は、ソビエト軍の前線を通過できなかった。多数が捕虜となり、一部は自殺を遂げた。5月2日、ベルリン防衛区の司令官であったヘルムート・ヴァイトリングの命令により、交戦は公式に終了した。

ウィーン陥落の後、LSSAH師団は1600名以下の人員と16輌の戦車を備えていた。ベルリン護衛大隊の残存部隊を除いて、LSSAH師団は1945年5月8日に、シュタイアー地区においてアメリカ軍に降伏した。

編成
1943年-1944年 第1SS装甲師団 ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー
SS第101重戦車大隊(SS-Panzer-Abteilung 101)
SS第1戦車連隊(SS Panzer-Regiment 1)
SS第1装甲擲弾兵連隊LSSAH(Panzer-Grenadier-Regiment 1)
SS第2装甲擲弾兵連隊LSSAH(Panzer-Grenadier-Regiment 2)
SS第1装甲砲兵連隊(SS Panzer-Artillerie-Regiment 1)
SS第1対空砲大隊(SS Flak Artillerie-Abteilung 1)
SS第1ロケット砲大隊(SS Nebelwerfer-Abteilung 1)
SS第1突撃砲大隊(SS Sturmgeschutz-Abteilung 1)
SS第1装甲偵察大隊(SS Panzer-Aufklarungs-Abteilung 1)
SS第1戦車猟兵大隊(SS Panzerjager-Abteilung 1)
SS第1装甲工兵大隊(SS Panzer-Pionier-Bataillon 1)
SS第1装甲通信大隊(SS Panzer-Nachrichten-Abteilung 1)
SS第1補給部隊(SS Versorgungs-Einheiten 1)
SS第野戦補充大隊(SS Feldersatz-Bataillon 1)

第2SS装甲師団 ダス・ライヒ(2.SS-Panzer-Division Das Reich)
第2SS装甲師団 ダス・ライヒは、武装親衛隊の38個ある師団のひとつ。よく訓練されたエリート部隊で、第二次世界大戦の主要な戦闘で大きな役割を果たした。部隊名のダス・ライヒは祖国あるいは国家を意味する。
フランス戦後に、部隊は名称をSS-VT 師団から、SS師団ライヒと変更した。フランス降伏後、師団はイギリス英本土侵攻のためにフランスに留まったが、英本土侵攻作戦の延期により、1941年、師団はユーゴスラビア・ギリシア侵攻のためのマリータ作戦準備にルーマニアへ移動した。
1943年の初め、ダス・ライヒはハリコフの正面の崩壊の危機にある戦区の補強に東部戦線に戻された。ハリコフの再占領後、ダス・ライヒは、他の師団とともに、クルスクの戦いに参加した。ダス・ライヒは、突出部の南側の攻撃を担い40マイル前進したが、作戦が中止されベルゴロドに後退した。その後、ミウス河、ハリコフ、キエフと転戦した。1943年10月に第2SS装甲師団ダス・ライヒと改称。
1944年6月のノルマンディへの連合軍侵攻時、ダス・ライヒは、ヒトラーユーゲント師団と装甲教導師団と共にカーンの北方で連合軍の進撃を食い止める任務を受けた。師団は、モルタンを再占領したが、連合軍によりファレーズに包囲された。この戦いで重装備を失い、1944年の終わりまでに師団は、ドイツ・フランス国境まで撤退を行った。
アルデンヌの戦いの後、ダス・ライヒはドイツ国内に再編成のため撤退した。ダス・ライヒは、東部戦線南のハンガリーのブダペストにおける反撃作戦に投入された。この作戦は、ブダペスト市内にヒトラーの死守命令により包囲された部隊を救出することが目的であった。しかし、当初の攻撃がブダペストへの最短ルートである装甲部隊の前進・攻撃に向かない地形に対して行なわれたため、部隊の前進は進まなかった。その後、遠回りであるが装甲部隊の進撃に向いている平地を経由しての攻撃が再度行なわれたが、既に時期を逸しており、作戦は失敗した。
その後、ダス・ライヒは再度ドイツに戻り、残りの戦争中、ドレスデン、プラハ、ウィーンでの戦闘に参加し、終戦時、師団のほとんどはアメリカ軍に降伏するため西部戦線へ移動した。

SS第101重戦車大隊(ティーガーI型重戦車大隊 SS第1装甲師団)
SS第101重戦車大隊は、武装親衛隊のSS第1装甲師団に配属された重戦車大隊である。主にティーガーI重戦車を装備していた。ノルマンディー上陸作戦直後のヴィレル・ボカージュの戦いにおいて、第2中隊長ミハエル・ヴィットマンの活躍により連合軍戦車を圧倒した。

1943年7月19日編成
7月10日の連合軍のシチリア島上陸にともない、8月、SS第1装甲擲弾兵師団LSSAH(ライプシュタンダーテ・SS・アドルフ・ヒトラー)が東部戦線からイタリアへ送られ、SS第1装甲軍団SS重戦車大隊が配属された。イタリア降伏後、10月まで、LSSAHとともにイタリアにとどまった。
その後、東部戦線に移動し、SS第101重戦車大隊と改称。東部戦線でもLSSAHとともに戦い、1944年4月4日に、西部への帰還命令が下った。
1944年6月6日の連合軍のノルマンディー上陸後、6月12日、第101重戦車大隊の先鋒がノルマンディーの前線に到着し、6月末まで戦った。特にヴィレル・ボカージュの戦いでは大きな戦果を挙げた。7月、ティーガーIIへの再装備のため戦線から引き抜かれたが、8月の撤退戦ですべてのティーガーIを失った。
1944年9月9日、残存部隊が、練兵場での休息とティーガーUへの再装備を命じられた。(SS第501重戦車大隊に名称変更 1944年 - 1945年5月)

重戦車大隊(編成規模は他国の戦車連隊に匹敵)
第二次世界大戦中のドイツ国防軍で編成された重戦車による戦車大隊。陸軍または軍団直轄の独立部隊として編成され、ティーガーI、ティーガーII重戦車の大部分はこれらの独立重戦車大隊で集中運用された。初期には随伴の中戦車を含む編制であったが、後に重戦車のみの編制に改められた。

編成
戦車45両(3個中隊)
中隊の定数はティーガー14両(中隊本部2両、3個小隊各4両)、各大隊には3個中隊に本部中隊3両を加えた計45両
随伴車両 約270両(装甲兵員輸送車 対空車両など)

第12SS装甲師団 ヒトラーユーゲント(12.SS-Panzer-Division Hitlerjugend)
ナチス・ドイツの武装親衛隊に所属した師団のひとつである。師団の通称からもわかるように、青少年団体「ヒトラーユーゲント」から選抜された青年を中心に構成された師団であった。ドイツ人のみで編成された武装SS師団としては最後のもので、下級兵士の大半が16歳以上の未成年で構成されていた。第二次世界大戦末期、ノルマンディー上陸作戦に伴うフランスでの戦闘、バルジの戦い、春の目覚め作戦などに参加した。

1943年6月1日編成
同師団の編成情報を入手した連合国軍は、哺乳瓶を師団マークにした宣伝ビラを撒くなど、完全な二線級部隊と決め付けていたが、やがてそれが大きな間違いであることを身をもって知らされることとなる。
ノルマンディー上陸作戦が開始された時、第12SS装甲師団と第21装甲師団は上陸地点の一番近くに配置されていた装甲師団だった。しかしヒトラーの了解がなかなか得られなかったため、上陸してきた連合軍に対して反撃を開始できたのは上陸から16時間もたってからであった。この反撃は結果的に失敗に終わり、ノルマンディー地区のドイツ軍は防戦に転ずるが、そこで第12SS装甲師団は真価を発揮する事となる。
ノルマンディー地方では交通の要所であるため、最重要都市のひとつであるカーン市の周辺に展開した第12SS装甲師団は、そこで超人的とも言える防戦を展開した。
第12SS装甲師団はカーン周辺から撤退した後リュティヒ作戦に投入され、その結果生じたファレーズ包囲網では最後まで残って他の部隊を逃がすために戦ったため、消耗し壊滅状態となった。
1944年12月のバルジの戦いでは、第1SS装甲師団と共に第6装甲軍の主力として参加したが、エルゼンボルン尾根に阻まれ第1SS装甲師団との併進に失敗し、第1SS装甲師団主力は壊滅した。
1945年3月には春の目覚め作戦に投入されたが、再び壊滅した。残存兵力はオーストリアに転進し、1945年5月8日、リンツ南東において米軍に降伏した。最終的な兵力は僅か455名で、戦車などの重装備は失われていた。

ドイツ国防軍陸軍 第503重戦車大隊(ティーガーII重戦車大隊) - Schwere PanzerAbteilung 503 -
第503重戦車大隊(ティーガーII重戦車大隊)
- Schwere PanzerAbteilung 503 -
(フェルトヘルンハレ重戦車大隊)
陸軍直轄独立部隊

ドイツ国防軍陸軍 第503重戦車大隊
第503重戦車大隊(Schwere Panzer-Abteilung 503)は、ドイツ国防軍陸軍に存在した重戦車大隊である。他の部隊とは異なり、どこの上級部隊にも属さない陸軍直轄の独立大隊として運用された。
第503重戦車大隊は1942年5月4日に組織された。1944年4月カメネツ=ポドリスキー包囲戦後、第503重戦車大隊は45両のティーガーIIを受領し、再編が図られた。
1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦を受けて、第503重戦車大隊は第5装甲軍の麾下となった。連合軍のグッドウッド作戦では、大隊の第3中隊を中心に作戦初日で13両の戦車を失う大きな損害を被っている。7月に第3中隊は新たなティーガーIIを受領したが、そのティーガーIIも連合軍に次々撃破され、ドイツ本国に帰還したのは僅かに2両であった。9月、部隊を再編した大隊はデブレツェンの戦いに従軍し、12月にはブダペストでの防衛任務に当たった。

posted by Idol-Net21 at 09:42| 軍事/動画
Copyright(C)1999-2017 Idol-Net21. All Rights Reserved.