2019年07月06日

ドイツアフリカ軍団 Deutsches Afrikakorps (指揮官 エルヴィン・ロンメル)


ドイツアフリカ軍団 Deutsches Afrikakorps
(指揮官 エルヴィン・ロンメル)

http://www.youtube.com/watch?v=LNU9t7igKKI

ドイツアフリカ軍団 Deutsches Afrikakorps (指揮官 エルヴィン・ロンメル)
1940年9月イタリア領リビアに駐留するイタリア軍は、ローマ帝国の再来を夢見てイギリス領エジプトへの侵攻を開始した。しかし、攻勢は12月からイギリス軍の反撃により頓挫し、1941年1月イギリス軍は逆にリビアのキレナイカ地方を占領し、2月6日にはベンガジを占領する。このイタリア軍の敗北を受けて、ドイツ国防軍最高司令部は地中海・アフリカ方面へ兵力を展開することを決定し、エルヴィン・ロンメルを指揮官として2個師団(第5軽師団と第15装甲師団)をドイツアフリカ軍団と名づけ、イタリア軍救援のために派遣した。

第三次ハリコフ攻防戦 1943年1月 第ISS装甲軍団
第ISS装甲軍団(SS PANZER KORPS)
第1SS装甲師団 ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー(1.SS-Panzer-Division Leibstandarte SS Adolf Hitler)
第2SS装甲師団 ダス・ライヒ(2.SS-Panzer-Division Das Reich)
第3SS装甲師団 トーテンコプフ(3.SS-Panzer-Division Totenkopf)

第三次ハリコフ攻防戦
第三次ハリコフ攻防戦は、1943年1月から3月まで、ハリコフを中心にウクライナで行われたドイツ軍と赤軍との戦闘。
ソ連軍の大攻勢に対して、ドイツ軍はマンシュタインの機動防御戦による反撃により東部戦線南部は崩壊を免れた。「マンシュタインのバックハンドブロウ(後手からの一撃)」の異名を取り、機動防御戦の教科書として戦史上極めて重要な戦闘の一つに数えられている。
ドイツ軍は、ウクライナの解放を目指すソ連ヴォロネジ方面軍・南西方面軍・南方面軍の大攻勢に押し込まれたが、反撃に成功しクルスクを中心としたソ連側の突出部が形成された。
第ISS装甲軍団は第1SS装甲師団、第2SS装甲師団、第3SS装甲師団から構成されていた。
SSの師団は一般的には他の師団より状態が良く、150台の戦車と自走砲大隊を持ち、歩兵と偵察部隊はトラックにより自動化され、19,000名の編成で構成されていた。この時、ドイツ戦車の大半が未だにIII号戦車とIV号戦車によって構成されていたが、第2SS装甲師団にはティーガーIが配備された。
SS装甲軍団はパウル・ハウサー将軍によって指揮されていた。ハウサーは第3SS装甲師団の指揮官でもあった。

第12SS装甲師団 ヒトラーユーゲント(12.SS-Panzer-Division Hitlerjugend)
ナチス・ドイツの武装親衛隊に所属した師団のひとつである。師団の通称からもわかるように、青少年団体「ヒトラーユーゲント」から選抜された青年を中心に構成された師団であった。ドイツ人のみで編成された武装SS師団としては最後のもので、下級兵士の大半が16歳以上の未成年で構成されていた。第二次世界大戦末期、ノルマンディー上陸作戦に伴うフランスでの戦闘、バルジの戦い、春の目覚め作戦などに参加した。

1943年6月1日編成
同師団の編成情報を入手した連合国軍は、哺乳瓶を師団マークにした宣伝ビラを撒くなど、完全な二線級部隊と決め付けていたが、やがてそれが大きな間違いであることを身をもって知らされることとなる。
ノルマンディー上陸作戦が開始された時、第12SS装甲師団と第21装甲師団は上陸地点の一番近くに配置されていた装甲師団だった。しかしヒトラーの了解がなかなか得られなかったため、上陸してきた連合軍に対して反撃を開始できたのは上陸から16時間もたってからであった。この反撃は結果的に失敗に終わり、ノルマンディー地区のドイツ軍は防戦に転ずるが、そこで第12SS装甲師団は真価を発揮する事となる。
ノルマンディー地方では交通の要所であるため、最重要都市のひとつであるカーン市の周辺に展開した第12SS装甲師団は、そこで超人的とも言える防戦を展開した。
第12SS装甲師団はカーン周辺から撤退した後リュティヒ作戦に投入され、その結果生じたファレーズ包囲網では最後まで残って他の部隊を逃がすために戦ったため、消耗し壊滅状態となった。
1944年12月のバルジの戦いでは、第1SS装甲師団と共に第6装甲軍の主力として参加したが、エルゼンボルン尾根に阻まれ第1SS装甲師団との併進に失敗し、第1SS装甲師団主力は壊滅した。
1945年3月には春の目覚め作戦に投入されたが、再び壊滅した。残存兵力はオーストリアに転進し、1945年5月8日、リンツ南東において米軍に降伏した。最終的な兵力は僅か455名で、戦車などの重装備は失われていた。

ミハエル・ヴィットマン
最終軍歴 第1SS装甲師団 第101重戦車大隊 大隊長(SS大尉)
(Michael Wittmann 1914年4月22日 - 1944年8月8日)
最終撃破数 戦車138両、対戦車砲132門

1941年7月ウマーニ包囲戦
III号突撃砲A型
ヴィットマンは16両の戦車と会敵、地形を巧妙に利用して一方的に攻撃し、6両の戦車を撃破した。功績は高く評価され、第二級鉄十字章を受章、その後も確実に戦果を上げていった。

1942年7月 ヴィットマンは、バート・テルツ親衛隊士官学校 (SS-Junkerschule Bad Tolz) に入校。
1942年12月 ヴィットマンは将校教育を修了し、親衛隊少尉に任官、LSSAH師団のSS第1戦車連隊第13中隊に配属され、新型のVI号戦車ティーガーIを受領した。

1943年7月 プロホロフカ戦車戦
ティーガーI型 1331号車
ヴィットマンとSS第1戦車連隊第13中隊は、約40両のソ連戦車を撃破。

1944年2月2日ヴィットマンは総統大本営にてヒトラー本人から、柏葉付騎士鉄十字章を拝領し、合わせてSS中尉に昇進した。

ヴィレル・ボカージュの戦い
ティーガーI型 222号車
1944年6月13日にカーン市の側面への迂回突破を図るイギリス第7機甲師団(アフリカ戦線でロンメルの主敵であった「砂漠の鼠」)の先鋒戦車部隊がヴィレル・ボカージュに差し掛かり、休息のために停止した。これを知ったヴィットマンは、直ちに単独攻撃を決意。
ヴィットマンは単独でヴィレル・ボカージュの戦いの幕を切った。この街の南側から奇襲をかけ、攻撃開始と同時に3両の戦車を撃破。その後、東方の213高地へ生垣を遮蔽物としながら街道上の車列を攻撃、6両の戦車、10両の装甲兵員輸送車(ハーフトラック)、4両の装甲車、2門の対戦車砲を撃破した。
213高地で第2中隊の戦車と合流すると、再びヴィレル・ボカージュへ向かった。市街に入ったところで3両の戦車と指揮戦車を撃破。ここでイギリス軍の対戦車砲による攻撃を受け、行動不能となったため、ヴィットマンたちは脱出した。
ヴィットマン自身は、戦闘で27両の車両を撃破した。6月25日に総統官邸に出頭したヴィットマンにヒトラーはみずからヴィレル・ボカージュの功績により柏葉剣付騎士鉄十字章を授与した。これに合わせてSS大尉に昇進しSS第101重戦車大隊長に任命された。

ミハエル・ヴィットマンの最期
ティーガーI型 007号車
1944年8月8日、ヴィットマンの第2中隊は友軍の後退を援護するためサントーへ向けて出撃した。乗車はティーガー007号車である。12時40分頃、007号車を含める4両のティーガーは前進中に国道158号線で敵軍の対戦車砲に攻撃された、交戦する間も無く3両が撃破され、007号車も車体側面にシャーマン ファイアフライの直撃弾を受け大破炎上、ヴィットマンらは戦死した。この日、新入りだった若い将校のため、わざわざ大隊長の彼がサポート役を買って出て同行していた。

第2SS装甲師団 ダス・ライヒ(2.SS-Panzer-Division Das Reich)
第2SS装甲師団 ダス・ライヒは、武装親衛隊の38個ある師団のひとつ。よく訓練されたエリート部隊で、第二次世界大戦の主要な戦闘で大きな役割を果たした。部隊名のダス・ライヒは祖国あるいは国家を意味する。
フランス戦後に、部隊は名称をSS-VT 師団から、SS師団ライヒと変更した。フランス降伏後、師団はイギリス英本土侵攻のためにフランスに留まったが、英本土侵攻作戦の延期により、1941年、師団はユーゴスラビア・ギリシア侵攻のためのマリータ作戦準備にルーマニアへ移動した。
1943年の初め、ダス・ライヒはハリコフの正面の崩壊の危機にある戦区の補強に東部戦線に戻された。ハリコフの再占領後、ダス・ライヒは、他の師団とともに、クルスクの戦いに参加した。ダス・ライヒは、突出部の南側の攻撃を担い40マイル前進したが、作戦が中止されベルゴロドに後退した。その後、ミウス河、ハリコフ、キエフと転戦した。1943年10月に第2SS装甲師団ダス・ライヒと改称。
1944年6月のノルマンディへの連合軍侵攻時、ダス・ライヒは、ヒトラーユーゲント師団と装甲教導師団と共にカーンの北方で連合軍の進撃を食い止める任務を受けた。師団は、モルタンを再占領したが、連合軍によりファレーズに包囲された。この戦いで重装備を失い、1944年の終わりまでに師団は、ドイツ・フランス国境まで撤退を行った。
アルデンヌの戦いの後、ダス・ライヒはドイツ国内に再編成のため撤退した。ダス・ライヒは、東部戦線南のハンガリーのブダペストにおける反撃作戦に投入された。この作戦は、ブダペスト市内にヒトラーの死守命令により包囲された部隊を救出することが目的であった。しかし、当初の攻撃がブダペストへの最短ルートである装甲部隊の前進・攻撃に向かない地形に対して行なわれたため、部隊の前進は進まなかった。その後、遠回りであるが装甲部隊の進撃に向いている平地を経由しての攻撃が再度行なわれたが、既に時期を逸しており、作戦は失敗した。
その後、ダス・ライヒは再度ドイツに戻り、残りの戦争中、ドレスデン、プラハ、ウィーンでの戦闘に参加し、終戦時、師団のほとんどはアメリカ軍に降伏するため西部戦線へ移動した。

SS第101重戦車大隊(ティーガーI型重戦車大隊 SS第1装甲師団)
SS第101重戦車大隊は、武装親衛隊のSS第1装甲師団に配属された重戦車大隊である。主にティーガーI重戦車を装備していた。ノルマンディー上陸作戦直後のヴィレル・ボカージュの戦いにおいて、第2中隊長ミハエル・ヴィットマンの活躍により連合軍戦車を圧倒した。

1943年7月19日編成
7月10日の連合軍のシチリア島上陸にともない、8月、SS第1装甲擲弾兵師団LSSAH(ライプシュタンダーテ・SS・アドルフ・ヒトラー)が東部戦線からイタリアへ送られ、SS第1装甲軍団SS重戦車大隊が配属された。イタリア降伏後、10月まで、LSSAHとともにイタリアにとどまった。
その後、東部戦線に移動し、SS第101重戦車大隊と改称。東部戦線でもLSSAHとともに戦い、1944年4月4日に、西部への帰還命令が下った。
1944年6月6日の連合軍のノルマンディー上陸後、6月12日、第101重戦車大隊の先鋒がノルマンディーの前線に到着し、6月末まで戦った。特にヴィレル・ボカージュの戦いでは大きな戦果を挙げた。7月、ティーガーIIへの再装備のため戦線から引き抜かれたが、8月の撤退戦ですべてのティーガーIを失った。
1944年9月9日、残存部隊が、練兵場での休息とティーガーUへの再装備を命じられた。(SS第501重戦車大隊に名称変更 1944年 - 1945年5月)

重戦車大隊(編成規模は他国の戦車連隊に匹敵)
第二次世界大戦中のドイツ国防軍で編成された重戦車による戦車大隊。陸軍または軍団直轄の独立部隊として編成され、ティーガーI、ティーガーII重戦車の大部分はこれらの独立重戦車大隊で集中運用された。初期には随伴の中戦車を含む編制であったが、後に重戦車のみの編制に改められた。

編成
戦車45両(3個中隊)
中隊の定数はティーガー14両(中隊本部2両、3個小隊各4両)、各大隊には3個中隊に本部中隊3両を加えた計45両
随伴車両 約270両(装甲兵員輸送車 対空車両など)

IV号戦車 Panzerkampfwagen(パンツァーカンプワーゲン) IV - PzKpfw IV
ナチスが政権をとる以前から、ドイツ国防軍はヴェルサイユ条約下で密かに再軍備を見据えた新型戦車の開発を行っていた。
IV号戦車は、ドイツ戦車の中で最も生産数が多く(ただし、装甲戦闘車両という大きな括りで見た場合、III号突撃砲が最多生産数となる)、大戦中期ごろには改良が限界に達していたものの、敗戦時まで主力として使用され続け、ドイツ戦車部隊のワークホースとして機能した。また、同時期に開発され、50mm砲の搭載を想定したIII号戦車に比べ、75mm砲の搭載を前提に設計されたこともあり、ターレットリング(回転式砲塔)の直径が大きいため、長砲身の75mm砲に設計変更が可能であり、既存車両でも長砲身に換装することが容易であった。そのため、戦訓による武装強化にも対応し、変化する戦況の中で様々な要求に応じるべく車体部分を流用した多種多様な派生型を生み出した。
同盟国などにも輸出され、G型以降がイタリア王国、ルーマニア王国、ハンガリー、ブルガリア、フィンランド、スペイン、トルコの各軍に配備され、戦後も暫く使用されていた。チェコスロバキアが保有していた中古、及びフランスの接収品を購入したシリア軍のIV号戦車が、中東戦争でイスラエル国防軍のセンチュリオンと交戦した記録がある。
1941年6月、独ソ戦が開始され、ドイツ軍はソ連国内への侵攻を開始する。そこで赤軍のT-34に対して全てのドイツ対戦車兵器の威力不足が露呈するという事態に遭遇する。そのため、T-34などの戦車に対抗できるよう主砲を短砲身から長砲身に設計変更したG型が登場する(最初の長砲身型はF2型とも表記される)。 この型式あたりから、IV号は支援戦車から主力戦車の地位を務めるようになる。北アフリカ戦線に送られた長砲身型のIV号は、この戦線に派遣されたドイツ軍のなかではティーガ―Iに次ぐ強力な戦車であり、全体で見れば少数しか配備されていなかったものの、大きな戦果を上げており、連合軍からはマークIVスペシャルとして恐れられた。
1943年、性能向上としては最終型とも言えるH型が登場する。同じころ、V号戦車パンターが登場し、生産も開始されて配備も始まっていたが、パンターの生産が伸び悩んだこともあり、敗戦時までIV号が主力の地位を務めている部隊が少なくはなかった。
ドイツ陸軍兵器局は、T-34-85との算定で、IV号戦車はあらゆる比較項目で圧倒されるという結論に至っていたが、全ての生産ラインをパンターに切り替える余裕は無く、グデーリアンの強い反対もあって本車の生産を中止するという選択肢はなかった。ただし、想定される敵戦車でも主力である中戦車のM4シャーマンやT-34であれば撃破することは可能であり、重戦車でなければ、兵器局が言うような一方的に撃破される状況となっていたわけではなかった。

posted by Idol-Net21 at 09:46| 軍事/動画
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