2019年10月13日

V号戦車パンター Panzerkampfwagen V Panther(パンツァーカンプフワーゲン V パンター)


V号戦車パンター
Panzerkampfwagen V Panther(パンツァーカンプフワーゲン V パンター)

http://www.youtube.com/watch?v=0-I239livXc



V号戦車パンター Panzerkampfwagen(パンツァーカンプワーゲン) V Panther
ドイツV号戦車 パンター
後に「V号戦車」の名称は廃止されたため、正式名称は、
「Panzerkampfwagen Panther」
「パンツァーカンプフワーゲン パンター」です。
本車はそれまでのドイツ戦車と違い傾斜した装甲を持っており、70口径 7.5 cm KwK 42という強力な(対戦車兵器として56口径8.8 cm KwK 36よりも近距離であれば高い装甲貫徹力を持つ)戦車砲を搭載していた。また、ティーガー同様に幅の広い履帯、挟み込み式配置の大きな転輪で車重を分散し接地圧を下げる工夫が行われ、これは車台側面を守る補助装甲の役も与えられている。
戦場に大挙出現したパンターへのソ連軍の反応は素早く、クルスクの戦いで損傷し、戦場に放棄された31両のパンターは徹底的に調査された。結果、砲撃により撃破されたものはこのうちの22両で、傾斜した車体前面装甲を撃ち抜けた砲弾は一発も無く、一方機関部付近への被弾では容易に炎上するなどの弱点も発見している。またこの中でT-34によって撃破されたものはたったの1両だけであった。しかし1943年後半でも赤軍戦車部隊は、1941年と同様の76.2mm砲装備のT-34が主力のままであった。この砲はパンターの前面装甲に対して力不足で、撃破するためには側面に廻りこまねばならなかったが、パンターの主砲はどの方向からでも遠距離からT-34を撃破できた。そこで85mm砲と三人乗りの大型砲塔を装備したT-34-85戦車が開発された。本戦車はパンターと対等とは言えなかったものの、76.2mm砲装備のものよりはるかに強力であり、質的な劣勢は数的優位でおぎなった。T-34の車台を使用したSU-85やSU-100などの新型の自走砲も投入された。1944年半ばまでには赤軍はパンターよりはるかに多数のT-34-85を戦線に投入していた。

性能諸元
全長 8.66 m
車体長 6.87 m
全幅 3.27 m
全高 2.85 m
重量 44.8 t
懸架方式 ダブルトーションバー方式
速度 46 - 55 km/h(整地)
27 - 33 km/h(不整地)
行動距離 170 - 250 km
主砲 70口径75 mm Kw.K.42 L/70(79発)
副武装 7.92 mm MG34機関銃×2(4,200発)
装甲 砲塔前面110 mm 傾斜11°
側・後面45mm 傾斜25°
車体前面80mm 傾斜55°
側面40mm 傾斜40°
後面40mm 傾斜30°
エンジン Maybach HL230P30
水冷4ストロークV型12気筒ガソリン
700 hp (520 kW)
乗員 5 名


第1SS装甲師団 ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー
(1.SS-Panzer-Division Leibstandarte SS Adolf Hitler)

第1SS装甲師団 ライプシュタンダーテ・SS・アドルフ・ヒトラー(Leibstandarte SS Adolf Hitler)は、武装親衛隊の38個ある師団のひとつ。SS第1装甲師団は、第二次世界大戦における東部戦線と西部戦線において活躍した。師団章は初代の指揮官ヨーゼフ・ディートリッヒの名前に鍵の意味があることに由来する。
Leibstandarte SS Adolf Hitler を敢えて訳せば、アドルフ・ヒトラー個人の武装親衛隊となる。
ヒトラー個人の護衛として発足、ヒトラーが政権獲得後徐々に拡大され、エリート集団であるSS装甲師団の中でも最精鋭の師団だった。部隊の出動先は常にヒトラーにより決定されており、戦争中最も有名な武装親衛隊の師団の一つとして知られるようになった。

ベルリンの戦い・降伏
LSSAHの一部は、ベルリンにおける戦闘で最期を迎えた。1945年4月23日、ヒトラーはモーンケSS少将を、総統官邸と総統地下壕が存在する中央政府地区の司令官に任命した。モーンケの司令所は総統官邸の地下、内部の壕にあった。彼はおよそ2000人からなる、2つの弱体な連隊に分割されたモーンケ戦闘団を編成した。彼の戦闘要員の中核集団は、ライプシュタンダルテ護衛大隊の800名であった。ヒトラーが自殺した後、彼らは脱出の指示を受けた。試みに先だって、モーンケはツィタデル地区内に到達できた指揮官の全員に対して、ヒトラーの死にまつわる出来事と脱出計画に関する説明を行った。行動は5月1日の23時に開始された。10の主な集団の中で、モーンケは先発隊を率いた。いくつかの非常に小規模な集団は、エルベ川西岸のアメリカ軍の下へ到達しおおせたが、モーンケの集団を含む大半は、ソビエト軍の前線を通過できなかった。多数が捕虜となり、一部は自殺を遂げた。5月2日、ベルリン防衛区の司令官であったヘルムート・ヴァイトリングの命令により、交戦は公式に終了した。

ウィーン陥落の後、LSSAH師団は1600名以下の人員と16輌の戦車を備えていた。ベルリン護衛大隊の残存部隊を除いて、LSSAH師団は1945年5月8日に、シュタイアー地区においてアメリカ軍に降伏した。

編成
1943年-1944年 第1SS装甲師団 ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー
SS第101重戦車大隊(SS-Panzer-Abteilung 101)
SS第1戦車連隊(SS Panzer-Regiment 1)
SS第1装甲擲弾兵連隊LSSAH(Panzer-Grenadier-Regiment 1)
SS第2装甲擲弾兵連隊LSSAH(Panzer-Grenadier-Regiment 2)
SS第1装甲砲兵連隊(SS Panzer-Artillerie-Regiment 1)
SS第1対空砲大隊(SS Flak Artillerie-Abteilung 1)
SS第1ロケット砲大隊(SS Nebelwerfer-Abteilung 1)
SS第1突撃砲大隊(SS Sturmgeschutz-Abteilung 1)
SS第1装甲偵察大隊(SS Panzer-Aufklarungs-Abteilung 1)
SS第1戦車猟兵大隊(SS Panzerjager-Abteilung 1)
SS第1装甲工兵大隊(SS Panzer-Pionier-Bataillon 1)
SS第1装甲通信大隊(SS Panzer-Nachrichten-Abteilung 1)
SS第1補給部隊(SS Versorgungs-Einheiten 1)
SS第野戦補充大隊(SS Feldersatz-Bataillon 1)

SS第101重戦車大隊(ティーガーI型重戦車大隊 SS第1装甲師団)
SS第101重戦車大隊は、武装親衛隊のSS第1装甲師団に配属された重戦車大隊である。主にティーガーI重戦車を装備していた。ノルマンディー上陸作戦直後のヴィレル・ボカージュの戦いにおいて、第2中隊長ミハエル・ヴィットマンの活躍により連合軍戦車を圧倒した。

1943年7月19日編成
7月10日の連合軍のシチリア島上陸にともない、8月、SS第1装甲擲弾兵師団LSSAH(ライプシュタンダーテ・SS・アドルフ・ヒトラー)が東部戦線からイタリアへ送られ、SS第1装甲軍団SS重戦車大隊が配属された。イタリア降伏後、10月まで、LSSAHとともにイタリアにとどまった。
その後、東部戦線に移動し、SS第101重戦車大隊と改称。東部戦線でもLSSAHとともに戦い、1944年4月4日に、西部への帰還命令が下った。
1944年6月6日の連合軍のノルマンディー上陸後、6月12日、第101重戦車大隊の先鋒がノルマンディーの前線に到着し、6月末まで戦った。特にヴィレル・ボカージュの戦いでは大きな戦果を挙げた。7月、ティーガーIIへの再装備のため戦線から引き抜かれたが、8月の撤退戦ですべてのティーガーIを失った。
1944年9月9日、残存部隊が、練兵場での休息とティーガーUへの再装備を命じられた。(SS第501重戦車大隊に名称変更 1944年 - 1945年5月)

重戦車大隊(編成規模は他国の戦車連隊に匹敵)
第二次世界大戦中のドイツ国防軍で編成された重戦車による戦車大隊。陸軍または軍団直轄の独立部隊として編成され、ティーガーI、ティーガーII重戦車の大部分はこれらの独立重戦車大隊で集中運用された。初期には随伴の中戦車を含む編制であったが、後に重戦車のみの編制に改められた。

編成
戦車45両(3個中隊)
中隊の定数はティーガー14両(中隊本部2両、3個小隊各4両)、各大隊には3個中隊に本部中隊3両を加えた計45両
随伴車両 約270両(装甲兵員輸送車 対空車両など)

ミハエル・ヴィットマン
最終軍歴 第1SS装甲師団 第101重戦車大隊 大隊長(SS大尉)
(Michael Wittmann 1914年4月22日 - 1944年8月8日)
最終撃破数 戦車138両、対戦車砲132門

1941年7月ウマーニ包囲戦
III号突撃砲A型
ヴィットマンは16両の戦車と会敵、地形を巧妙に利用して一方的に攻撃し、6両の戦車を撃破した。功績は高く評価され、第二級鉄十字章を受章、その後も確実に戦果を上げていった。

1942年7月 ヴィットマンは、バート・テルツ親衛隊士官学校 (SS-Junkerschule Bad Tolz) に入校。
1942年12月 ヴィットマンは将校教育を修了し、親衛隊少尉に任官、LSSAH師団のSS第1戦車連隊第13中隊に配属され、新型のVI号戦車ティーガーIを受領した。

1943年7月 プロホロフカ戦車戦
ティーガーI型 1331号車
ヴィットマンとSS第1戦車連隊第13中隊は、約40両のソ連戦車を撃破。

1944年2月2日ヴィットマンは総統大本営にてヒトラー本人から、柏葉付騎士鉄十字章を拝領し、合わせてSS中尉に昇進した。

ヴィレル・ボカージュの戦い
ティーガーI型 222号車
1944年6月13日にカーン市の側面への迂回突破を図るイギリス第7機甲師団(アフリカ戦線でロンメルの主敵であった「砂漠の鼠」)の先鋒戦車部隊がヴィレル・ボカージュに差し掛かり、休息のために停止した。これを知ったヴィットマンは、直ちに単独攻撃を決意。
ヴィットマンは単独でヴィレル・ボカージュの戦いの幕を切った。この街の南側から奇襲をかけ、攻撃開始と同時に3両の戦車を撃破。その後、東方の213高地へ生垣を遮蔽物としながら街道上の車列を攻撃、6両の戦車、10両の装甲兵員輸送車(ハーフトラック)、4両の装甲車、2門の対戦車砲を撃破した。
213高地で第2中隊の戦車と合流すると、再びヴィレル・ボカージュへ向かった。市街に入ったところで3両の戦車と指揮戦車を撃破。ここでイギリス軍の対戦車砲による攻撃を受け、行動不能となったため、ヴィットマンたちは脱出した。
ヴィットマン自身は、戦闘で27両の車両を撃破した。6月25日に総統官邸に出頭したヴィットマンにヒトラーはみずからヴィレル・ボカージュの功績により柏葉剣付騎士鉄十字章を授与した。これに合わせてSS大尉に昇進しSS第101重戦車大隊長に任命された。

ミハエル・ヴィットマンの最期
ティーガーI型 007号車
1944年8月8日、ヴィットマンの第2中隊は友軍の後退を援護するためサントーへ向けて出撃した。乗車はティーガー007号車である。12時40分頃、007号車を含める4両のティーガーは前進中に国道158号線で敵軍の対戦車砲に攻撃された、交戦する間も無く3両が撃破され、007号車も車体側面にシャーマン ファイアフライの直撃弾を受け大破炎上、ヴィットマンらは戦死した。この日、新入りだった若い将校のため、わざわざ大隊長の彼がサポート役を買って出て同行していた。

第2SS装甲師団 ダス・ライヒ(2.SS-Panzer-Division Das Reich)
第2SS装甲師団 ダス・ライヒは、武装親衛隊の38個ある師団のひとつ。よく訓練されたエリート部隊で、第二次世界大戦の主要な戦闘で大きな役割を果たした。部隊名のダス・ライヒは祖国あるいは国家を意味する。
フランス戦後に、部隊は名称をSS-VT 師団から、SS師団ライヒと変更した。フランス降伏後、師団はイギリス英本土侵攻のためにフランスに留まったが、英本土侵攻作戦の延期により、1941年、師団はユーゴスラビア・ギリシア侵攻のためのマリータ作戦準備にルーマニアへ移動した。
1943年の初め、ダス・ライヒはハリコフの正面の崩壊の危機にある戦区の補強に東部戦線に戻された。ハリコフの再占領後、ダス・ライヒは、他の師団とともに、クルスクの戦いに参加した。ダス・ライヒは、突出部の南側の攻撃を担い40マイル前進したが、作戦が中止されベルゴロドに後退した。その後、ミウス河、ハリコフ、キエフと転戦した。1943年10月に第2SS装甲師団ダス・ライヒと改称。
1944年6月のノルマンディへの連合軍侵攻時、ダス・ライヒは、ヒトラーユーゲント師団と装甲教導師団と共にカーンの北方で連合軍の進撃を食い止める任務を受けた。師団は、モルタンを再占領したが、連合軍によりファレーズに包囲された。この戦いで重装備を失い、1944年の終わりまでに師団は、ドイツ・フランス国境まで撤退を行った。
アルデンヌの戦いの後、ダス・ライヒはドイツ国内に再編成のため撤退した。ダス・ライヒは、東部戦線南のハンガリーのブダペストにおける反撃作戦に投入された。この作戦は、ブダペスト市内にヒトラーの死守命令により包囲された部隊を救出することが目的であった。しかし、当初の攻撃がブダペストへの最短ルートである装甲部隊の前進・攻撃に向かない地形に対して行なわれたため、部隊の前進は進まなかった。その後、遠回りであるが装甲部隊の進撃に向いている平地を経由しての攻撃が再度行なわれたが、既に時期を逸しており、作戦は失敗した。
その後、ダス・ライヒは再度ドイツに戻り、残りの戦争中、ドレスデン、プラハ、ウィーンでの戦闘に参加し、終戦時、師団のほとんどはアメリカ軍に降伏するため西部戦線へ移動した。

第12SS装甲師団 ヒトラーユーゲント(12. SS-Panzer-Division Hitlerjugend)
ナチス・ドイツの武装親衛隊に所属した師団のひとつである。師団の通称からもわかるように、青少年団体「ヒトラーユーゲント」から選抜された青年を中心に構成された師団であった。ドイツ人のみで編成された武装SS師団としては最後のもので、下級兵士の大半が16歳以上の未成年で構成されていた。第二次世界大戦末期、ノルマンディー上陸作戦に伴うフランスでの戦闘、バルジの戦い、春の目覚め作戦などに参加した。

1943年6月1日編成
同師団の編成情報を入手した連合国軍は、哺乳瓶を師団マークにした宣伝ビラを撒くなど、完全な二線級部隊と決め付けていたが、やがてそれが大きな間違いであることを身をもって知らされることとなる。
ノルマンディー上陸作戦が開始された時、第12SS装甲師団と第21装甲師団は上陸地点の一番近くに配置されていた装甲師団だった。しかしヒトラーの了解がなかなか得られなかったため、上陸してきた連合軍に対して反撃を開始できたのは上陸から16時間もたってからであった。この反撃は結果的に失敗に終わり、ノルマンディー地区のドイツ軍は防戦に転ずるが、そこで第12SS装甲師団は真価を発揮する事となる。
ノルマンディー地方では交通の要所であるため、最重要都市のひとつであるカーン市の周辺に展開した第12SS装甲師団は、そこで超人的とも言える防戦を展開した。
第12SS装甲師団はカーン周辺から撤退した後リュティヒ作戦に投入され、その結果生じたファレーズ包囲網では最後まで残って他の部隊を逃がすために戦ったため、消耗し壊滅状態となった。
1944年12月のバルジの戦いでは、第1SS装甲師団と共に第6装甲軍の主力として参加したが、エルゼンボルン尾根に阻まれ第1SS装甲師団との併進に失敗し、第1SS装甲師団主力は壊滅した。
1945年3月には春の目覚め作戦に投入されたが、再び壊滅した。残存兵力はオーストリアに転進し、1945年5月8日、リンツ南東において米軍に降伏した。最終的な兵力は僅か455名で、戦車などの重装備は失われていた。

posted by Idol-Net21 at 16:05| 軍事/動画
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